■ クトゥルフの呼び声
このクトゥルフ神話の聖典とされるのがラヴクラフトの「クトゥルフの呼び声」である。「クトゥルフの呼び声」は繊細な感覚を持った芸術家が見た悪夢をその発端に、狂暴化する精神病患者達、その活動を活発化する邪教団らを通じて徐々に明らかになる《旧支配者》クトゥルフの復活を描いたラヴクラフトの傑作小説である。
微震がニューイングランドを襲った夜、ウィルコックス青年は「粘液をしたたらせる巨大な石材から成る巨人族の大都の光景」(以下引用は創元推理文庫『ラヴクラフト全集2』「クトゥルフの呼び声」より)の悪夢を見る。そのあまりに奇怪な悪夢を彼は夢うつつに薄肉浮彫りに印し、古代碑文字の権威として知られるエインジェル老教授のもとに持参する。彼が書きとめた薄肉浮彫りは「象形文字らしい線の羅列」に加え、「章魚(たこ)と竜と人間のカリカチュアを一緒くたに表現」した怪物の図象が描かれおり、夢の中で地下から単調な響きで《クトゥルフ》、《ル・リエー》と繰り返し聞こえてきたというのである。ウィルコックス青年は微震が起こった1925年3月1日から3月23日まで繰り返し同様の悪夢を見続け、3月23日から原因不明の高熱を発し4月2日まで意識不明に陥った後、不思議なことに4月2日を境に意識を回復し、以降彼にこの悪夢は訪れなくなる。エインジェル老教授は彼が見た一連の悪夢がニューオリンズで17年以上前に起こった邪教団の事件と奇しくも一致する点を重視し、調査を開始する。その事件とは、「どこか人間臭さが漂っているものの、頭は章魚(たこ)にそっくり、何本かの触手が顔から伸び、鱗に覆われた胴体に爪の長い前足と後足、そして背中には細長い翼」を持った邪神像を崇める狂信者達による禍々しい人身御供の儀式の摘発事件であった。警察により捕らえられた彼ら狂信者達が語ったところによると「海底の大いなる都ル・リエーの隠れ家に眠るクトゥルフが立ち上がって、神神の言葉をもって信徒たちに呼びかけ、ふたたび地球の支配者となる」というのである。調査を続けるエインジェル老教授はやがて謎の急死をし、その資料を相続した語り手である「ぼく」はさらなる調査により、恐るべき結論に辿り着くのであった。
《旧支配者》クトゥルフの復活により引き起こされる恐るべき混沌が、緻密に構成された文章を進めるにつれ様々な事件から明らかになっていく様は、人間が大いなる存在の前ではいかに無力でちっぽけな存在で儚いものであるかを我々の前に提示する。この大いなる混沌と人間の無力なる恐怖こそがラヴクラフトが生み出したクトゥルフ神話の真髄であり、後にオーガスト・ダーレスを中心として展開された完全善悪二元論化されたクトゥルフ神話体系とは大いにその方向性を異にするものである。この「クトゥルフの呼び声」の他、ラヴクラフトは「ダニッチの怪」では魔道書『ネクロノミコン』を用いた黒魔術により《旧支配者》ヨグ=ソトホースを召還せんとする顛末を、「インスマウスの影」ではマサチューセッツ州の寂れた街インスマウスにはびこる半人半魚を祭るダゴン秘密教団の恐怖を描く等、複数の作品でクトゥルフ神話を展開している。