■ 屈折したロマンティシズム
その後ルゴシは、『吸血鬼甦る』(1944)で吸血鬼アーマンド・テスラを演じるが、『吸血鬼甦る』は良質な要素の見当たらぬ低予算映画であり、もはやルゴシの名は吸血鬼という役柄をもってしても人々を魅了できぬことは誰の目にも明白であった。ルゴシ最後の輝きはユニヴァーサルが制作した『凸凹フランケンシュタインの巻』(1948)で二度目にして最後に演じたドラキュラである。しかし、本作はアボットとコステロという二人のコメディアンが主役であり、ドラキュラ伯爵とフランケンシュタインの怪物、狼男が一同に会するというコメディ映画であった。『魔人ドラキュラ』で一枚看板として観客を震え上がらせ、ドラキュラの普遍的イメージを作り出したルゴシ往年の姿はそこにはなく、セルフ・パロディとしてドラキュラを演じる、哀しく老いた役者としてのルゴシがそこにあった。ルゴシの役者人生の転落はさらに続き、彼は晩年には映画と呼ぶのも躊躇わざるをえない、B級を通り越してZ級のエド・ウッドの映画に出演していた。そして1956年、ドラキュラのイメージを作り上げ、自らそのイメージに縛られ続けた悲劇の俳優は死亡する。ルゴシは自らの希望でドラキュラの衣装を纏い埋葬された。
自ら作り上げたドラキュラの影に蝕まれ栄光の座から転落し、モルヒネ中毒で痩せ衰えていったルゴシは、ドラキュラの役を拒みながらもずたずたのプライドをドラキュラに求め続けねばならなかった。そんな彼の悲壮な人生は我々の共感を呼び、我々は同じ闇の住人として自己を彼に投射する。人間というちっぽけな存在を超越し異世界へと誘ってくれる、さかしまなるキリスト的存在としての吸血鬼への憧憬は、彼の悲壮な人生に対する共感と重ね合わされ、屈折したロマンティシズムを生み出す。数多くの吸血鬼映画に主演しながらも己のイメージを吸血鬼に留まらせる事無く役者として成功したクリストファー・リーのように、器用に生きることが出来なかったルゴシは、 我々と同じ人種であるが故に唯一にして最高のドラキュラ俳優として今もなおその名が記憶されているのである。
我々が吸血鬼に魅了され、その姿を追い求め続ける限り、ベラ・ルゴシの名は永遠に消えることはない。ルゴシの名はドラキュラの名と共に、今後も永遠に思い出されることだろう。吸血鬼映画への憧憬は、屈折したロマンティシズムそのものなのであるから。