■ さかしまなるキリスト、ドラキュラ
だが、我々が望んでいるのはそんな吸血鬼達ではない。正統なる吸血鬼映画が耽美的になり過ぎるあまり同人誌的嗜好に迷い込み、アニメやゲーム、低俗な小説群と渾然一体と化す中、真に求められているのは唯一無比の死の象徴としての吸血鬼であり、そこにあるのは崇高にしてさかしまなるキリスト的存在への憧憬である。我々が吸血鬼に魅了されて止まぬのは、それが光や愛といったものから拒絶された我々と同じ闇の住人であるにも関わらず、毅然とし世俗を超越した存在であるからに他ならず、それを吸血鬼自らがその悲しみや苦悩を全面に押し出し自身の悲劇を語りだしてしまってはならないのである。ましてや、吸血鬼の魅力を見てくればかりに絞り、美形の悲劇の主人公に仕立て挙げる等、論外も甚だしい。屈折したロマンティシズムは、一般人向けに普遍化された恋愛物語や、同人誌的嗜好に彩られた軟弱さとは決して相容れることはないのである。
貴族然とした崇高なる吸血鬼の肖像を映画に求めると、それは半ば必然的にドラキュラ映画へと辿り着く。『魔人ドラキュラ』(1931)で怪奇的な雰囲気を濃厚に漂わせたベラ・ルゴシ、190cmを超える痩身に荒々しくも気高き雰囲気を伴わせた『吸血鬼ドラキュラ』(1958)のクリストファー・リー。この二大怪奇俳優にこそ、我々が求めるべき吸血鬼像がある。クリストファー・リーは14作品もの吸血鬼映画に出演した怪奇映画界のカリスマ的存在であり、ピーター・カッシング、ヴィンセント・プライスらと怪奇映画の一時代を築き上げた最後の怪奇俳優である。昨今では『スリーピー・ホロウ』(1999)や『ロード・オブ・ザ・リング』(2001)での健在な姿が記憶に新しい。そして、ベラ・ルゴシ。欧米各国でもドラキュラと言えばルゴシかリーかと人気を両分するこの二人であるが、怪奇幻想を愛する私としてはあえてリーではなくルゴシを推す。ルゴシこそがドラキュラであり、そして同時にまたドラキュラの犠牲者であったと言える彼の悲壮な人生に、少なからず私は吸血鬼に対する憧憬を重ね合わせてしまうのである。