Dracula A.D.1972 (1972)
Director:アラン・ギブソン
Cast:クリストファー・リー / ピーター・カッシング / ステファニー・ビーチャム / キャロライン・マンロー
Production Company:ハマー
リー演ずるドラキュラ伯爵が現代(制作当時の1972年)のイギリスに甦り、ヘルシング教授の子孫と再び宿命の対決が始まる!いくらリーとカッシングの両雄が出演していようが、この設定を聞いた時点で私は本作を始めて見る時、多大な勇気がいった。どう考えてもこの設定には駄作の香りが漂っている。しかも『吸血鬼ドラキュラ』(1958)という傑作を生み出したハマー・フィルムとは言え、この作品はハマー末期の作品でありドラキュラシリーズも事実上セルフ・パロディのように形骸化していた頃のものである。
果たして見た結果はどうであったか。魅力溢れるシーンがある一方で、首を捻りたくなるシーンも多々あり、非常に評価の難しい作品である。唯一の救いは現代に甦ったドラキュラ伯爵が寂れた教会に潜み、そこから外へとは出ないためリーのシーンは全て中世的なゴシックムードが漂っているという点であろうか。
やはり現代のイギリスにドラキュラが甦るという設定は如何ともしがたく、特に70年代サイケデリックの最先端ファッションに身を包む当時の若者達は時代に色褪せ恥ずかしい限りであるし、そんな彼らが映った後にゴシックな教会に佇むリーを見ても、一つの作品として映画を見た場合に尋常ではない違和感が溢れている。ドラキュラの手下として働くアルカード(Draculaのアナグラム)は「吸血鬼は流水を渡ることはできない」という民間信仰に忠実に従い、シャワー(民間信仰でいう流水は川を指していたはずだが?)を浴びただけで絶命し、ドラキュラ伯爵の復讐の対象となる「ヒロイン」であるはずのジェシカを演ずるステファニー・ビーチャムは清楚の欠片も感じられない只の生意気な小娘でしかなく、最初の犠牲者となるキャロライン・マンローの半分も魅力がない。
この映画、実は冒頭1872年のリーとカッシングの馬車でのスピード感溢れる対決と、ラスト5分の二人の対決だけが見所であり、それだけで怪奇の血が騒いでしまう私のような人間以外には、滑稽な怪奇映画でしかないのではなかろうか。私が愛してやまないハマー・フィルムではあるが、やはり末期の作品には中庸な出来の作品が多く、この本作ですらハマー末期の作品としては出来の良いレベルに含まれるというのも、悲しい事実である。
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